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久保田利伸

久保田利伸(くぼたとしのぶ)

静岡県出身 獅子座 O型

`85年、作曲家としてデビュー。田原俊彦、鈴木雅之、小泉今日子、高橋真梨子等、アイドルから実力派歌手まで、幅広く楽曲を提供する。デビュー前に遊びで制作した「すごいぞテープ(海外曲のカバーなど収録)」がマスコミの間で評判になり、正式デビューを待たれる声が募る。

`86年〜
、シングル「失意のダウンタウン」でメジャー・デビュー。オリジナリティ溢れる音楽性、質の高い楽曲、抜群の歌唱力、卓越したリズム完は多くの人々を引き付け、日本の音楽シーンに新風を送り込み、独自の音楽スタイルのパイオニアとなる。 ライブの完成度にも定評があり、その楽しさと感動は他に類を見ない。演出、プロデュースも自身が行い、常に新しい試みに挑戦し、それらが後に別のアーティストに真似されることもしばしばである。自身の音楽制作のみならず、ドラマ主題歌、映画主題歌、CM音楽、スポーツ・テーマソングなど、多くのメディアへの楽曲提供経験もあり、それらの目的・期待に十分応える仕事ぶりとバランス感覚で、常に人々を喜ばせている。
〜`06年、邦楽アルバム11枚、US海外盤アルバム3枚、ベスト盤4枚(「The BADDEST」シリーズ)を発表。どの作品も普遍性を持ちながら、時代を的確につかみ、確実にファンの期待に応えている。

`88年以降、海外(主に米国)でのレコーディングがスタート。精力的に米国のミュージシャンを起用し、自らの音楽性をより高めてゆく。この頃から「地球を相手に歌ってゆきたい。」という志を固めて行く。

`93年よりニューヨークに移り住む。

`95年、USコロンビア・レーベルよりWorldwide release album発表。日本でのキャリアを意識せず、新人として米国で活動を始める。以降、アメリカと日本を股にかけた音楽生活を送る。

`96年、日本での約1年ぶりのシングル「LA・ LA・ LA LOVESONG」が200万枚を記録する大ヒット。あらゆるチャートを賑わす。同年発売のアルバムはミリオンを記録。

`98年、USエピック・レーベルと契約。

`00年、1年以上の制作期間を経て、Worldwide release album第2弾を発表。長い米国生活で築き上げた幅広い友好関係が垣間見れる豪華プロデューサー、ゲスト陣が多数参加する渾身の作となる。全米5大都市にてコンベンション・ライブを敢行。同年、日本では4年ぶりとなる全国ツアーを実施。益々度量の大きくなったパフォーマンス、変幻自在な歌声、お約束のユーモアで、エリアによっては7年ぶりとなる場所でさえ、観客を魅了し、大成功をおさめる。

`02年、ヒット曲を敢えて避けた久保田自身の選曲によるブラック・ミュージックファンに向けてのベスト・アルバムを発表。作家山田詠美氏の書き下ろし小説とのコラボレーションで話題を呼ぶ。
「BADDEST」シリーズ第3弾「THE BADDEST 3」発表。

`03年、初のX'mas Songを発表。

`04年 Worldwide release album第3弾「Time To Share」を発表。良きミュージシャン仲間であるAngie Stoneとともに、全米35箇所でツアーを行う。この時期、ブラック・ミュージシャンにとって殿堂入りとされる米国老舗テレビ番組「SOUL TRAIN」に、初の日本人ヴォーカリストとして出演し、賞賛を得る。

`05年 1年を通して邦盤シングル3枚発表。

`06年 デビュー20周年を迎え、11作目となるアルバム「FOR REAL?」を携え、日本での全国ツアー実施。
また、韓国の新人アーティストSunMinとのコラボレーション企画シングル「Keep Holding U」発表。(プロジェクト名“SunMin thanX Kubota”)東宝映画「日本沈没」の主題歌となる。

2007年 3月、カリスマを讃えるプログラム「MTV iCON」に初のアーティストとして選ばれる。
久保田をレスペクトする新進気鋭のミュージシャンやラッパーから、ミリオンセラー・アーティストまで多数参加。
5月より国民的ラッパー“KREVA”とコラボレーション・ライブ(全国9本)を敢行。また、このコラボレーションで“2つのスタイルが合わさることでより大きな力が生まれる”を合い言葉に生まれた楽曲『M☆A☆G☆I☆C』を8月8日にリリースする。


長年のキャリアをもちながらも、流行や時代に対するアンテナは高く、それらすべてが音楽に反映され、古くからの支持者をもちろんのこと、新しい世代からも常に熱いエールが送られている。

代表作:「LA・LA・LA LOVESONG」「Candy Rain」「AHHHHH!」「ポリ リズム」「Missing」「流星のサドル」「You were mine」など、多数。

history 2004年 US盤アルバムに終始した一年
2003年 ツアーで幕開け、そして初のクリスマス・ソング
2002年 アルバムを3枚も出しちゃった!
2001年 半分アメリカ、半分日本、ちょこっと夏休み
2000年 2度目のドレッドヘアも無残に壊れる多忙な一年!
1999年 シングル盤大量放出の一年!
1998年 ノルウェーの最北端でAHHHHH!!!!!
1997年 アメリカ奔走。束の間のファンキー・ミッキー!
1996年 大ヒット曲と2年半振りの全国ツアー!
1995年 ついに全米デビュー実現!
1994年 全米デビューの道は険しい!
1993年 初めてのジャマイカに心頭する!
1992年 パーソナル・オフィス設立!
1991年 ナイジェリアで感動の大合唱!
1990年 憧れのアーティスト達と共演!
1989年 ベスト・アルバムが200万枚突破!
1988年 初の海外レコーディングとミリオンセラー!
1987年 イジメにあったけど知名度も定着!
1986年 やっとデビュー! たちまちスター!!
1985年 えっ!? まだデビュー出来ないの!?
誕生
2004年 US盤アルバムに終始した一年
2月 NYにて完成した3rd Albumのジャケット撮影、プロモーション準備に突入。US盤に関わる活動が主となり、以後ほとんどの月日をNYにて費やすこととなる。
9月21日(日本発売9月15日)米国でのシングル決定が二転三転したために、発売が遅れに遅れたWorld wide 3rd Album「TIME TO SHARE」が満を持してリリース。
本場アメリカでの最前線のサウンド・アプローチをベースに、源流にあるソウル・ミュージックへの敬愛を存分に表現した最高傑作アルバム。参加アーティストに旧知の仲であるAngie Stone、MOS DEFを始め、Ivan & Carvin、Ali Shaheedといった音楽好き、R&B好きには垂涎の面々が居並ぶ。確かな音作りと、長年にわたるNY生活で培ってきた人間交流から生まれたアーティスト・パワー、人として男として厚みと深みを増した久保田の魅力がぎっしりと詰め込まれた作品となっている。

現在も引き続きプロモーションのため、NY滞在中。
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2003年 ツアーで幕開け、そして初のクリスマス・ソング
3月13日〜6月1日 前年発表した3作のアルバムを引っさげ、全国ツアー「mo’bounce to the ounce(全国38本)」を敢行。慣れ親しんだ前回のツアーメンバーと共に、最高のエンターテイメントを提供する。多くの感動と元気を観客に与え、語り継がれるライブとなる。

5月8日 ビデオクリップ集「Super Duper Vol.7」リリース。収録曲に「Cymbals」「Candy Rain」など。

6月〜 NYにてUS盤アルバムの最終レコーディングに入る。

10月〜 日本盤レコーディング、プロモーション・ビデオ撮影のために帰国。

12月10日 「au 」CMソング「Our Christmas」リリース。カップリングにNEC「 LaVie 」CMソング「La vie son Musique」、CX系「笑う犬の情熱」テーマソング「FUNKY DOGS」収録。
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2002年 アルバムを3枚も出しちゃった!
2月20日 シングル「Respect (this & that)」リリース。ラブソングに込められた平和へのメッセージを如実に表現したファンキー・ポップソング。

4月10日 12thアルバム「United Flow」リリース。ネオソウルの先駆けとも言えるこだわりの作品群。スタイルはFunky&Mellow。初の試みとして、作詞に直木賞作家・山田詠美氏、音楽評論家であり音楽プロデューサーの松尾潔氏を迎え、彩りを添えている。

5月〜 US盤3rd Albumの構想に入り、デモテープ制作、そしてレコーディングを随時始める。

5月10日 「United Flow」発売記念SPACE SHOWER TV presents「United Flow Night」、一夜限りのアコースティック・ライブを六本木「スウィート・ベイジル」にて行う。

7月24日 スペシャル・ベストアルバム「The BADDEST~ONLY FOR LOVERS IN THE MOOD〜」を限定盤として発売。ヒットソングにこだわらず、久保田自薦のR&B好きの人のためだけに選曲された、もうひとつのベストアルバム。新曲として往年のコーラス・グループ「Whispers」の「In the Mood」をカバー。秀逸なヴォーカルに圧倒される。山田詠美氏の書き下ろし小説と抱き合わせで発売され、話題となる。

8月 大ファンだったCX系バラエティ番組「笑う犬の情熱」のテーマソングを制作することになる。曲提供のみの予定が、番組プロデューサーより出演依頼。乗りかかった舟と、10月改編よりウッチャンナンチャン、ネプチューンとともに、思い切りパフォーマンス。

12月4日 ベスト・アルバム「The BADDEST 3」リリース。「LA・LA・LA LOVESONG」、「Cymbals」、「Candy Rain」、「Summer Eyes」、「AHHHHH!」等々、ヒット曲、名曲のてんこ盛りベスト。全17曲収録。

12月8日〜10日 初のアジアキャンペーンで台湾入り。10年以上に渡る生活でアメリカは熟知しつつも、アジアについてはほとんど見識がなく、不安を抱えて来台する。しかしながら台湾での人気は凄まじく、大勢のファンとマスコミに追われながら秒刻みのスケジュールをこなすこととなる。見知らぬ隣国に対する愛着が増大し、以後感謝と興味を持って接することとなる。
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2001年 半分アメリカ、半分日本、ちょこっと夏休み
Tour終了とともに、アメリカに戻り、US盤2nd single「Masquerade」のプロモーション・ビデオ撮影、2nd Promotion期間に突入。初夏までスケジュールにしばられ、2年ぶりの短い夏休み休暇をようやくゲット!

8月 休み明け、早速日本盤シングルのレコーディングがスタート。アメリカで構想を練り、その後日本にてスタジオ作業に入る。

11月14日 CX系ドラマ「水曜日の情事」主題歌「Candy Rain」リリース。カップリングはNEC i501携帯電話CMソング「In your flow」。「Candy Rain」を都内のスタジオでレコーディング中、NY WTCテロのニュースを受け、衝撃を受ける。この事件は、久保田が元々携える哲学を改めて見直すきっかけとなり、事後の作品に、より強く表現されるようになる。

NYテロ事件により、アメリカへの渡米がままならず、次作日本盤アルバムの制作を日本で始めることとなる。
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2000年 2度目のドレッドヘアも無残に壊れる多忙な一年!
ヘアスタイルを2度目のドレッドヘアにして、心機一転の年明け。多忙な一年のスタート!
ようやくUS盤セカンド・アルバムの制作も終了し、日本で発売する楽曲の制作に入る。アメリカでのCD発売をを控え、帰国することは叶わず日本盤アルバムの制作もNY JAMMIN’ DOWNTOWN STUDIOで行われる。

6月〜 日米盤それぞれのプロモーション活動に加え、日本盤シングル・アルバムの制作、予定されている全国ツアーの準備で、せっかくのドレッドヘアがみるみる乱れ、形を成さない状況まで追い詰められる。

7月4日(日本発売6月28日)World wide 2nd album「Nothing But Your Love」リリース。膨大な時間を要した渾身の作品。参加アーティストにTony Toni ToneのRapheal Saadiq、Diane Warren、Soul Shock & Karlin、Pras、以後長い付き合いとなるThe Roots、Angie Stoneなどなど。1st single「Nothing But Your Love」、2nd single「Masquerade」、コンサートで定番となった「Never Turn Back」を収録した全13曲。

8月30日 CX系シドニー企画イメージソング「ポリ リズム」リリース。

9月27日 11作目となるオリジナル・アルバム「As One」リリース。ほぼセルフ・プロデュースに徹した力作。

10月18日 ビデオクリップ集「Super Duper Vol.6」リリース。収録映像に「AHHHHH!」「ポリ リズム」など。

11月1日 「As One」より「Always Remain」をシングル・カット。小泉今日子氏特別出演に対し、ドレッドヘアをあきらめ、ほとんどアフロヘアに様変わりしている久保田の姿が林屋ぺー氏にしか見えない貴重なプロモーション・ビデオが制作される。

11月2日〜2001年1月21日 4年ぶりの全国ツアー「Nothing But As One Tour(全国31本)」スタート。米国で培ってきた実力とスタイリッシュなステージで観客を魅了する。ほとんどのバック・ミュージシャンを米国から参加させ、BGVを初の4人体制にし、贅沢なパフォーマンスを繰り広げる。
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1999年 シングル盤大量放出の一年!
昨年から続くUSアルバム第2弾の構想を具現化すべく年が明ける。果てしなく長い制作期間が続き、スタジオに閉じこもる毎日を送る。

7月28日 トヨタ・プラドCMソング「SOUL BANGIN’」TBS系ドラマ「独身生活」主題歌「the Sound of Carnival」2枚のシングルを同時発売。
US盤制作のため、NYを離れるわけがゆかず、それぞれのプロモーション・ビデオは現地で撮影。「the Sound~」は、SOHO地区のショーウィンドウの中に久保田が入り撮影されたため、マネキンを見るように人だかりができて作業に困難を来たす。

8月 プロモーションのため、久しぶりの帰国。

8月21日 久保田が詞曲を手がける東宝映画「メッセンジャー」(主演:飯島直子・草なぎ剛)全国公開。出演者全員が歌えるラップ曲というリクエストを受け、楽しく軽妙なサウンド作りに勤しむ。映画のエンドロールに流れる出演者の振り付けは、久保田がNYから電話でBro.KORNさんに頼み上げて指導してもらったもの。バドワイザーのCMとしても起用され、全国的に「楽勝!楽勝!」の声が響き渡る。映画公開初日挨拶で出演者と共に舞台に立つ。控え室で「カトチャンのイラスト入りライター」を飯島直子氏に見られ、笑われる。

9月8日 久保田が歌う「Messengers’ Rhyme~Rakushow, it’s your Show!~」リリース。NYのセントラルパーク内に組んだセットの中で、メッセンジャーに扮した久保田の姿がプロモーション・ビデオで見ることができる。

以降、US盤の制作のため、スタジオ缶詰生活に戻る。
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1998年 ノルウェーの最北端でAHHHHH!!!!!
2月 ニューヨークでワールドワイドリリース・アルバムの制作プランに入る。と同時に、突如としてファンキー・ミッキーから一気にショート・ヘアに! デビュー以来久々のショート・ヘアで、身も心も若返る!?

3月 日本テレビ「進ぬ! 電波少年」の番組企画で、アフリカ - ヨーロッパ縦断ヒッチハイクに挑戦してる朋友(パンヤオ)の応援歌を、松本明子嬢から依頼される。そして快諾。

3月 米国におけるコロンビア・レーベルとの契約を終了し、エピック・アメリカとドメスティック契約を締結。

6月 朋友の応援歌「AHHHHH!」のレコーディング。と同時に、今度はショート・ヘアを真っ白に染める! この後、久保田は日本のサッカー選手・カズが同じようなヘア・スタイルにしていることを知り、「ボクはカズの真似したんじゃないのら!」と必死の弁明。
また、「AHHHHH!」の広東語バージョンにも果敢にチャレンジ。しかし、その発音とノリの難しさに無念の玉砕! 嗚呼…。

8月 真っ白なショート・ヘア中止! 理由は、強力な染料が頭皮を破壊しはじめたため! トホホ…。

9月 「AHHHHH!」のプロモーションのために一時帰国。5 - 7日の大阪キャンペーンでは公開放送に出演し、怒涛の人波! 歓声と涙で大パニック!

9月18日 「AHHHHH!」リリース。

10月 香港で製作された久保田のベストアルバム「電波精選」が、マライア・キャリーのアルバムを抜き、堂々チャート1位に輝く!
また、アメリカではワールドワイドリリース・アルバムの制作が佳境に入る。しかし、ブラックミュージック系アーティストならではのルーズな仕事ぶりに、頭を抱えることも…。

11月11日 - 15日 日本テレビ「進ぬ! 電波少年」番組ロケのため北極へ! ノルウェー最北端からの生放送で「AHHHHH!」を熱唱。この時、生まれて初めて見るオーロラに大いに感動する。

12月21日 香港音楽界の四天王の一人・レオン・ライが「AHHHHH!」の広東語バージョンを日本リリース!
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1997年 アメリカ奔走。束の間のファンキー・ミッキー!
2月21日 TBS系TVドラマ「君が人生の時」の主題歌「Cymbals」(シンバル)をリリース。この作品は、アレンジャーとして久保田をサポートし続けている柿崎洋一郎との共同プロデュースである。

3月1日 ライヴ・ビデオ「TOSHINOBU KUBOTA CONCERT TOUR'96 ""Oyeees!""」リリース。ツアーの感動が自宅でよみがえり、一人でダンス・パーティーをするファンが続出。また、温泉や銭湯では「ハッ! ビバノンノン!」のかけ声がリバイバル!?
以降、アメリカでの活動がメインになる。ニューヨーク、L.A.などアメリカ国内を奔走。次なるアメリカ発売のレコード制作の構想、スタッフ、プロジェクト等の見直しなど、膨大な時間をかけることになる。

9月19日 久保田が参加したWORLD WIDE RELEASEのコンピュレーション・アルバム「THE BRIDGE」が日本国内リリース。久保田以外の参加アーティストは、マイケル・センベロ、カルロス・ジョビン等。
このレコーディングのために久保田は、何度もニューヨークとL.A.を往復し、時差ボケに悩まされていた。その時にマイケル・センベロが時差ボケの特効薬として久保田に教えたのが「パトロン」というテキーラ。
久保田いわく「マイケル・センベロに教わった一番のことは、パトロンの味ですね!」…だって!

10月 オフィシャル・ファンクラブ「BARI BARI CREW」の年末プレゼント大特集のためにニューヨーク取材。この時突然、久保田は頭の左右にWチョンマゲを結ぶという暴挙に出る。
このヘアー・スタイルを自ら「ファンキー・ミッキー」と名付け、大いにアピール。ファンの間で賛否両論の嵐が巻き起こる。

12月 全国TOWER RECORDSキャンペーン「NO MUSIC,NO LIFE」に参加し、音楽評論家の松尾潔氏との2ショット撮影。サンタクロースの扮装をした久保田のポスターが日本中に貼られるが、久保田自身は選ばれた写真が気に入らず、ご機嫌ナナメになる。
「この写真はないよなぁ…」と、うなだれる久保田の頭で、ファンキー・ミッキーが揺れていた。この時はまだ、誰もファンキー・ミッキーの短い命に気づいてはいなかった。
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1996年 大ヒット曲と2年半振りの全国ツアー!
5月13日 16枚目のシングルとなる「LA・LA・LA LOVE SONG」をフジテレビ系ドラマ「ロングバケーション」の主題歌としてリリース。レコーディングにスーパー・モデルのナオミ・キャンベルが参加したことも話題となるが、番組も好視聴率を記録し、「LA・LA・LA LOVE SONG」は200万枚を超える大ヒットとなる。これによって新たなファン層が一気に拡大する。

5月25 - 27日 フジテレビが臨海副都心に開設したライヴスペース「POP-STOCK」のこけら落としイベント""PARTY ON!!""UNDER A GROOVEに出演。久保田の発案により、ニューヨークのクラブ空間をイメージした会場ではビールやスナックも販売され、エントランスにはDJショー。さらに、ステージでもフリー・ダンスを多用するなど、ニューヨークでの充実した活動を知らしめるイベントとなった。

6月25日 全米で、キャロン・ウィラーとデュエットの2nd.Single「JUST THE TWO OF US」リリース。プロモーション・ビデオは、ロス・エンジェルスのパラマウント・スタジオで撮影される。
全国ツアー「Oyeees!」スタート。('97年1月12日まで全国22本のアリーナ・ツアー)2年半振りとなった全国ツアーは大反響。しかし、恒例の代々木体育館コンサートが台風のために延期となるアクシデントもあった。この時、延期を知らずに会場に集まったファンのために久保田は「帰るに帰れないでショー」を無料開催。その思いやりのショーの模様が、翌日の新聞を飾り話題となる。

10月15日 サントリービール“HALF&HALF”(映像は著作権の関係で見られません。ゴメンネ!)のCM放送開始。アカペラでグルーヴする久保田の姿が賛否両論を呼ぶ。いわく「気持ち悪い!」。いわく「すごいリズム感!」。このCMの真似をして咳き込む若者が続出した。

12月2日 7th.Album「LA・LA・LA LOVE THANG」リリース。このアルバムは久保田にとっては初めてのCD EXTRAで、パソコンで久保田の野球拳や塗り絵、プロモーションVTRダイジェスト等が楽しめる。
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1995年 ついに全米デビュー実現!
1月28日 6th.Album「BUMPIN' VOYAGE」リリース。これは、ニューヨークで作り続けていた楽曲をまとめた入魂の作品集でもある。

7月7日 15枚目のシングル「虹のグランドスラム」をABC放送全国ネットの野球アニメ「H2」の主題歌としてリリース。初のアニメ主題歌で、子供達にも久保田人気が拡大する。

8月29日 アメリカのコロンビア・レーベルより、toshi KUBOTAの名前でシングル「FUNK IT UP」をリリース。念願の全米デビューを果たす。

9月5日 全米でアルバム「SUNSHINE,MOONLIGHT」をリリース。同時に地道なライヴ活動を展開、着実に「toshi」の名が認知され始める。

9月10日 「SUNSHINE,MOONLIGHT」に3曲のボーナス・トラックを加え、日本国内リリース。全編英語の歌詞にもかかわらず、日本のファンは大きな喜びを持ってアルバムに耳を傾けた。

10月1日 TOKYO FMパーソナリティー番組「PLANET FLAVA」スタート。('96年4月7日より全国ネット)
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1994年 全米デビューの道は険しい!
3月 日本ハムのCM撮影のため一時帰国。このCM出演は、久保田の中学時代の先輩である日本ハム球団の広瀬哲朗選手との縁で実現した。これ以後、日本ハムと久保田の関係は長く続く。

9月 新曲「夜に抱かれて」のプロモーション・ビデオ撮影で初めての上海。この頃の久保田は、ニューヨークで全米デビューに向けて日夜奔走していた。事実、上海の撮影が終わるとその足でニューヨークに戻る。

しかし、まったくの新人として全米デビューを目指す久保田にとって、日本とは音楽業界のシステムが違うアメリカの壁は厚かった。

この年はデビュー以来毎年リリースしていたアルバムもなく、恒例の全国ツアーも休み、日本のファンは久保田の行方を心配し始めていた。
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1993年 初めてのジャマイカに心頭する!
3月 コカ・コーラのCF撮影のため初めてジャマイカを訪れる。ジャマイカはじまって以来の大掛かりな撮影となり、村人総出のお祭り騒ぎ。
そうした純朴な人々の心に心頭した久保田は、これ以後プライベートでもジャマイカを訪れるようになる。

7月15日 「EVRY'TING COOK AN CURIE!」ツアーがスタート。(10月31日まで全国52本)ジャマイカン・テイストたっぷりのステージは大好評を博し、パーソナル・オフィスでの仕事も軌道に乗る。

8月 ジミー・クリフと夏のスペシャル・イベントで2回共演。「ジミー・クリフって、なんてファンキーなオジサンなんだ!」と感想を語る。

9月22日 Best Album 2nd.「THE BADDEST II」リリース。
11月 次作構想と全米デビュー実現を心に秘め、ニューヨークへ。
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1992年 パーソナル・オフィス設立!
2月 ニューヨークの「Electric Lady Studio」でレコーディング開始。ニューヨークでのレコーディングが久保田の定番となり、一流アーティストとの交流もさらに深まる。
と言っても、一緒に寝るほど交流が深まったわけではない。

3月 FM802でパーソナリティ番組「Keep On Jammin'」スタート。

3月19日 雑誌「POPEYE」に連載していたエッセイ集「リズミズム」が初の単行本となりマガジンハウスより出版される。

4月22日 TOKYO FM主催「Earth Concious Concert」に、キャロン・ウィラーと共に出演。日本武道館で行われたコンサートの模様は、全世界に衛星中継された。

6月26日 「Funkin' On Neptune」ツアーがスタート。(10月1日まで全国60本)

7月1日 5th.Album「Neptune」リリース。

11月 パーソナル・オフィス、(株)ファンキー・ジャムを設立。かねてからの念願だった全米デビューに向けて本格的に始動開始する。
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1991年 ナイジェリアで感動の大合唱!
3月21日 '90年にレコーディングしたアリソン・ウィリアムスとのデュエット曲「Forever Yours」をシングル・リリース。プロモーション・ビデオのアリソンのド派手な衣裳に話題集中。

5月 アサヒ「バヤリースオレンジ」のイメージ・キャラクターを歴代に渡り務めていたチンパンジーに代わり、久保田がCM出演。

6月 ニューヨーク「Electric Lady Studio」でレコーディング開始。

9月21日 Special Album PARALLEL WORLD ??もう一人の久保田利伸?「KUBOJAH」リリース。これは、ラバーズ・ロックを意識したレゲエ・テイストたっぷりの企画アルバムで、久保田が敬愛する「SOUL II SOUL」の元ヴォーカリスト、キャロン・ウィラーも参加している。
これ以後、久保田とキャロンの親しい付き合いが始まる。と言っても、一緒に寝るほど親しい付き合いではない。(「KUBOJAH」の「JAH」とは、ジャマイカで神を表す言葉)

11月28日 アフリカのナイジェリア、ラゴス球場で開催されたチャリティー・イベント「Children Of Africa」に出演。
このイベントは黒人によるアフリカの子供達救済が主旨だったが、キャロン・ウィラーが久保田にも出演をリクエストし、唯一の日本人アーティストとして参加が実現した。
ステージに立った久保田は、オリジナル曲「MAMA UDONGO〜まぶたの中に…〜」と、ジミー・クリフの名曲「Many Revers To Cross」を熱唱。図らずも観客との大合唱になるという感動を味わい、涙もろい久保田は、もちろん泣いた。
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1990年 憧れのアーティスト達と共演!
1月 ニューヨークの「Right Track Studio」でニュー・アルバムのレコーディング開始。この時期、久保田はドレッド・ヘアーにするがニューヨークの黒人達に笑われて、すぐにやめる。トホホ…。

7月15日 4th.Album「BONGA WANGA」リリース。このアルバムは、「ボクがレスペクトするアーティスト達と一緒に作りたいら!」という久保田のワガママのため、制作費も莫大なものになってしまった。
参加アーティストは、ジョージ・クリントン、ブーチィー・コリンズ、トゥース・シールマンズ、JUJU、リン・デイビス等々、気絶するほどギャラの高い連中ばかり。
さらに、アルバム収録には間に合わなかったもののニューヨークのソウル・シンガー、アリソン・ウィリアムスとのデュエットも実現。やりたい放題の久保田であった。

10月11日 「日本一のBONGA WANGA 男s TOUR」スタート。('91年4月22日まで全国61本)このツアーには、アルバムにも参加した女性ヴォーカリスト、リン・デイビスも来日。
このツアーの合間をぬって、フジテレビ特番収録のため渡辺貞夫氏と共に黒人音楽のルーツを探るべく、アメリカ、ブラジル、ヨーロッパ、アフリカを1ヶ月かけて旅行。何もしゃべらないナベサダに代わり、リポーター役に徹する久保田であった。

12月 東京ドームで開かれたジョン・レノン生誕50周年祭「GREENING OF THE WORLD」に出演。ナタリー・コールと「TICKET TO RIDE」をデュエットする。
だが久保田本人は、どうしてブラック・フリークの自分がジョン・レノンの生誕祭に呼ばれたのか、不可解な面もちであった。

12月31日 NHK「紅白歌合戦」に出演。ニューヨークからアリソン・ウィリアムスとの共演を中継する。
この出演は、久保田の父親が「一度だけでいいから、紅白に出てくれら! 田舎じゃ紅白に出ないと一人前の歌い手として見てくれないら!」と懇願したため実現した。
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1989年 ベスト・アルバムが200万枚突破!
1月18日 「I Need Your Funky Thang!」ツアーがスタート。(6月29日まで全国88本)
7月 ミネアポリスの元プリンスのハウス・スタジオ「Paisley Park Studio」で初のベスト・アルバムのリミックス。

8月23日 NEW BLOOD PRESENTS「FUNKA HIPS LIVE SHOW」と銘打ち、全国12本のツアーをスタート。
このライヴは、ブラック・フリークと自他共に認めるDA BUBBLEGUM BROTHERS、AMAZONS、GWINKO、冨樫明生等のアーティスト達が集まり、ある種ミュージカル的ステージで高い評価を得る。

10月8日 Best Album「THE BADDEST」リリース。200万枚を突破して久保田もビックリ。

11月 デビュー以来ハード・スケジュールをこなし続けた御褒美に、長期休暇がもらえる。ニューヨークへ渡り次作の構想を練りつつも、久保田はこの頃から本格的に全米デビューを考え始めていた。
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1988年 初の海外レコーディングとミリオンセラー!
5月19 - 21日 「Keep On Dancing Tour Last」と称し、初の国立代々木第一体育館(オリンピック・プール)でスペシャル・ライヴ。全公演のチケットが5分で売り切れ。この後、オリンピック・プールでのライヴが定例となる。
また、この頃になると観客も久保田のダンサブルなステージに積極的に参加するようになり、会場全体がダンス・ホールと化す「GO GO DANCE PARTY」は快感的マンネリズムの極として定着。(このコンサートでカバー曲「In The Rain」を歌う時に、ステージに雨を降らせるという仕掛けが話題となるが、実は器材がズブ濡れになったり、中止したくなるくらい大変だった!)

6月 ロス・アンジェルスの「Indigo Ranch Studio」で3rd.Albumのレコーディングがスタート。この頃の久保田にとっては「夢の海外レコーディング」だった。

7月 カセット・テープ「maxell UD 」のCMに出演。

9月 雑誌の取材で初めてのアフリカ・ロケ。ケニアに10日間滞在しアフリカへの思いが一段と燃え上がる。

9月30日 3rd.Album「Such A Funky Thang!」リリース。久保田にとって初めてのミリオンセラー・アルバムとなり、「FUNKY」という言葉が音楽を超えて流行語のようになる。

10月 再度「夜のヒットスタジオ・デラックス」のマンスリー・ゲスト。この時はイジメにあわずに済む。
同時期、TOKYO FMでパーソナリティー番組「LAND OF GROOVE」が全国ネットでスタート。
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1987年 イジメにあったけど知名度も定着!
4月4日 FM横浜で、初のパーソナリティー番組「SHAKE IT PARADISE」スタート。軽妙な口調と気さくな素顔が人気に拍車をかける。

4月22日 2nd.Album「GROOVIN'」リリース。

5月8日 「GROOVIN'」ツアーがスタート。(8月17日まで全国31本)

10月 フジテレビ「夜のヒットスタジオ・デラックス」に新人ながらマンスリー・ゲストに異例の大抜擢。
4週間連続の出演で、久保田の知名度が年齢を超えてお茶の間にまで定着する。(このゲスト出演の時、某大物演歌歌手が久保田に蹴りを入れるという陰湿なイジメをする。この事実を知った久保田の母親は、某大物演歌歌手のファンをやめた!)

11月28日 「Keep On Dancing」ツアーがスタート。('88年4月30日まで全国70本)ますます磨きのかかった久保田のパフォーマンスに、全国の会場がダンス・ホールと化す。

12月29日 ブラック・ミュージックをこよなく愛する久保田の発案で、同好のミュージシャンが集まりシークレット・ギグ「FUNKY DYNAMITE」を渋谷ライヴインで開く。
久保田みずからアフロ・ヘアーのカツラで「BOOTSY KUBOTA」と名乗り、ブラック・フリーク好みのカバー曲のみを熱唱するが、あまりの宣伝不足で観客はまばら。
しかしクチコミで噂が広がり、結局は満杯となって午前4時まで盛り上がって大成功を納める。
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1986年 やっとデビュー! たちまちスター!!
SONY RECORDSからもらった新型ウォークマンが旧型になる頃、業を煮やしたか満を持したか、プレゼンテーション・テープ「すごいぞテープ」を作成。スティービー・ワンダーのカバー「We Are The World」メドレー等、抜群の歌唱力とリズム感が大きな衝撃を与え、さらにマスコミの注目を集める。
機を見るに敏なSONY RECORDSは、ここぞとばかりに久保田のデビューを決定。(この「すごいぞテープ」は限定非売品だったため、テープのコピーがチマタで高額売買された)

6月17日 TOKYO FM HALLで、ついにデビュー・ライヴ。押し寄せた音楽業界関係者が入りきれずパニックとなる。これを皮切りに全国でコンベンション・ライヴを開く。

6月21日 SONY RECORDSから待望のデビュー・シングル「失意のダウンタウン」をリリース。
「やっと本当にデビュー出来たら!」とタメ息。

9月10日 1st. Album「SHAKE IT PARADISE」が、狙いすまされた一撃の如くリリースされる。
このアルバムに収録された「流星のサドル」と「Missing」は、未だシングル・カットされていないものの、久保田の代表曲として広く定着している。

9月25 - 27日 渋谷パルコ・スペースパート?でオール・スタンディング・コンサートを行う。
女性3人のコーラス・グループ「AMAZONS」と繰り広げる完成されたライヴ・パフォーマンス。それは、今までの日本人アーティストには見られなかったもので、観客は圧倒されながらも大きな支持で受け入れた。
続いて、「SHAKE IT PARADISEへようこそ」ツアーで、初の全国7大都市コンサート。久保田のパフォーマンスは、一気に全国区に広まる。また、この頃を前後して、当時フジテレビの人気番組「オールナイトフジ」の看板ライヴ・アーティストとなる。

11月1日 全国の学園祭ツアーがスタート。ここでも多くの観客が、初めて体験する久保田のブラック・テイストあふれるパフォーマンスに夢中になる。
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1985年 えっ!? まだデビュー出来ないの!?
(株)キティミュージック(現ユニバーサルミュージック)と待望の専属契約。
「よしっ! これでレコード・デビューら!」と意気込むが、岩崎宏美、小泉今日子、鈴木雅之…多くのアーティストへ楽曲提供の日々が続く。

「早く自分がデビューしたいら!」のジレンマの中、田原俊彦に書いた「It's BAD」が大ヒット。
それまで認知の低かった日本語のラップが話題を呼び、久保田自身の知名度も徐々に高まる。

これに勢いを得て、自らライヴ・ハウスをブッキングしライヴ活動を再開。観客動員数も増えて次第にマスコミの注目を浴びるようになり、「久保田利伸争奪戦」が各レコード会社間で急速に激化。
そして、「契約書にサインすれば新型ウォークマンをオマケに付ける!」という一言に誘惑され、久保田はSONY RECORDSと契約を結ぶ。

こうして久保田は新しいウォークマンを手に入れたのだが、まだデビューは出来ない! 甘くない!! 「こんなハズじゃないら!?」
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誕生
生まれたばかりの久保田を見たお坊さんが、「こりゃぁ立派な赤子ら! スゲー男になるら!」と感嘆。
久保田家最初で最後の男児誕生であった。7月24日・静岡県出身。獅子座。O型。
(言葉の最後に「ら」が付くのは、久保田の地元の方言。だから、ララという外人女性を見かけた時「ララら!」となり、ここから大ヒット・ソング「LA・LA・LA LOVE SONG」が生まれたという逸話もある…)

子供の頃から野球好きで、高校時代は甲子園を目指して練習に明け暮れる。
が、もうひとつの壮大な夢であった音楽の道を極めるべく野球を断念。
駒沢大学入学と同時に上京し、ファンク・バンド「ホッテントット」を結成する。(この時のリード・ギタリスト・羽田一郎は、大学卒業後に大手企業へ就職するも、プロ・デビューした久保田にそそのかされ、現在も久保田の大切なパートナーとしてツアー等には不可欠な存在となっている)

ホッテントットの活動の中心は東京のライヴ・ハウスだったが、観客数がメンバーより少ないこともよくあった。
そんな悲惨な状況にもめげず、久保田は自分の実力を信じてコンテスト「East West」に出場。見事にベスト・ヴォーカル賞を獲得し、ちょっとテングになる。で、大学の先輩に怒られる。

ともかく、こうして歌の実力を認められた久保田は、アマチュアながらも松岡直也氏のアルバム「LONG FOR THE EAST」でゲスト・ヴォーカリストとしてソロをとる。曲名は「THE LATIN MAN」。

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